本陣に戻ると、いつ攻撃を仕掛けられても対応できる状態に陣形は整えられていた。
シグマの手際の良さに感謝しつつ、ユノーはエドナ側に視線を巡らせるが、未だ黒い影はその姿を確認できずにいた。 しかし、最悪挟撃されることも念頭に入れておかなければならない。 そんなユノーの心配をよそに、完全に表情を押し殺したミレダは、駆け寄りひざまずくシグマに向き直る。 「どんな状況だ?」 硬い声で問うミレダに、シグマは頭を垂れたまま答える。 「それが、なんとも言えない妙な状態で……」 妙? とでも言うように首をかしげるミレダ。 シグマは、更に続けた。 「まず、援軍であれば先触れがあるはずですが、それもありません。そして、向こうは所属を示す旗印(はたじるし)すら掲げていません」 正直、敵なのか味方なのかすらわからない。 そうシグマが締めくくったとき、前方部隊からざわめきが伝わってくる。 「どうしました?」 すぐさま問うユノー。 と、謎の部隊から使者とおぼしき者が単騎、こちらに近付いててくるという。 さて、どうするか。 ユノーは、シグマとミレダを交互に見やる。 俺は殿下と坊ちゃんの決定に従う、と言うシグマ。 無言でうなずくミレダ。 とにかく先方の話を聞こうと、ユノーの腹は決まった。 やがて、すぐ目前までやって来た使者の装備に、ミレダとユノーは等しく息を飲む。 それは紛れもなく、元来ミレダが率いていた宮廷近衛も勤める朱(あけ)の隊のものだったからだ。 「殿下は、いずこにおわす?」 よく通る使者の声が、荒涼とした大地に響く。 それに応じて出ていこうとするミレダを、ユノーは慌てて制した。 「お一人では危険です! 小官も……」 「相手は単騎だ。私がお前と行けば、礼に反する」 「ですが……」 埒が明かないと判断したシグマが、前に出る。 そして、使者と対峙した。先鋒隊からの報告を受けたロンドベルトは、なんとも言い難い表情を浮かべていた。 前方に対峙する蒼の隊の数は、斥候部隊の報告によると、約六千五百といったところらしい。 ルドラの時よりも、明らかに数を減らしている。 加えて、常に彼らを率いてきた絶対的な指揮官が不在である事は、ロンドベルト自身が誰よりもよく知っている。 にも関わらず、陣頭には以前は決して掲げることの無かったルウツ皇帝の紋章旗を隊旗と共に掲げているという。 常識的に考えれば、この状況は明らかにおかしいと言って良い。 こちらの想定外の所に伏兵を置いているのか、あるいはただのはったりなのか。 常のごとくロンドベルトがその力を行使すれば、相手の手の内はこの上なく簡単に理解できるのだろう。 だが、なぜか今は進んで『見たい』とは思わなかった。 正確に言えば、目の前に展開する敵軍にわざわざ『見る』ほどの価値を見出だせなかったのだ。 見ようと見まいとこの戦で訪れる結末は、ルウツの常勝軍団の消滅以外他にない。 ロンドベルトはそれを強く確信していたからである。 けれど……。 「お加減が優れないようにお見受けしますが……」 そう不安げに声をかけて来たのは、他でもなく副官のヘラである。 こと、ロンドベルトのことに関しては、彼女は本人以上にその心中の変化を察知する能力を有しているようだった。 わずかに苦笑を浮かべて見せてから、ロンドベルトは皮肉交じりに言った。 「いや、敵ながら相手の状況に少々同情していると言ったところかな」 上官の言葉の真意をはかりかねて、ヘラはわずかに小首をかしげる。 「同情……ですか? それは一体、どういうことでしょうか」 「あれほどの軍功を上げながら、最終的に与えられたのが死刑宣告といっても良いこの状況だ。敵とはいえ、あまりにも哀れだと思わないか?」 確かに数に勝るイング隊とこのまままともにぶつかれば、敵に勝ち目は無いだろう。 それを見越した上での派兵だとしたら、悲劇としか言いようがない。
ミレダが姿を現す。 ただそれだけのことなのに、その場の空気が変わるのをユノーは感じた。 「遠路はるばるご苦労と言いたいところだが、これは一体どういう魂胆だ?」 使者と対峙するミレダはユノーの知るその人ではなく、威厳を持った皇帝の妹姫だった。 その威圧感に押され、使者は自ら進んで下馬し恭しく膝を折る。 それを見下ろしながら、ミレダはさらに続ける。 「聞けば、私と共に戦に臨みたいとのことだが、誰の許しを得てこのような無謀な行動を?」 使者は平伏したまま、震える声で答える。 「我らは朱の隊入隊の時、他でもなく殿下に剣を捧げております。この期に及んで自分達だけ皇都で安寧をむさぼるのは我慢ならず……」 「愚か者が! それで私が喜ぶとでも思ったか?」 突然の怒声に、後方で様子をうかがっていたユノーは目を丸くし、シグマは呆気に取られたような表情を浮かべる。 一方、その怒りを買った側は、恐縮したように一段と深く頭を垂れる。 「め……滅相もございません。我々はただ、殿下への忠誠を……」 「私への忠義を示すなら、なぜ私から命じられた責務を果たそうとしない? 貴官らがいたずらに持ち場を離れた結果、私が陛下のご不興を買うこととなるではないか」 少しでも考えればわかることを、なぜそのように後先考えず行動するのか。 馬上からそう語るミレダの口調は、決して激しいものではない。 けれど、静かな圧力に使者は顔を上げることができずにいた。 返す言葉もない使者に向かい、ミレダはさとすように続ける。 「もっとも私は、姉上……陛下から縁を切られたようなものだ。そんな私に従うとなれば、貴官らの命も危うい。悪いことは言わぬ。今すぐ皇都に戻れ」 大儀であった。 そう締めくくると、ミレダは馬首を返し、陣へと戻って来た。 ユノーを始めとする隊の面々は、そんなミレダを取り囲む。 「よろしかったのですか? 殿下……」 不安げに問いかけてくるユノーに
本陣に戻ると、いつ攻撃を仕掛けられても対応できる状態に陣形は整えられていた。 シグマの手際の良さに感謝しつつ、ユノーはエドナ側に視線を巡らせるが、未だ黒い影はその姿を確認できずにいた。 しかし、最悪挟撃されることも念頭に入れておかなければならない。 そんなユノーの心配をよそに、完全に表情を押し殺したミレダは、駆け寄りひざまずくシグマに向き直る。 「どんな状況だ?」 硬い声で問うミレダに、シグマは頭を垂れたまま答える。 「それが、なんとも言えない妙な状態で……」 妙? とでも言うように首をかしげるミレダ。 シグマは、更に続けた。 「まず、援軍であれば先触れがあるはずですが、それもありません。そして、向こうは所属を示す旗印(はたじるし)すら掲げていません」 正直、敵なのか味方なのかすらわからない。 そうシグマが締めくくったとき、前方部隊からざわめきが伝わってくる。 「どうしました?」 すぐさま問うユノー。 と、謎の部隊から使者とおぼしき者が単騎、こちらに近付いててくるという。 さて、どうするか。 ユノーは、シグマとミレダを交互に見やる。 俺は殿下と坊ちゃんの決定に従う、と言うシグマ。 無言でうなずくミレダ。 とにかく先方の話を聞こうと、ユノーの腹は決まった。 やがて、すぐ目前までやって来た使者の装備に、ミレダとユノーは等しく息を飲む。 それは紛れもなく、元来ミレダが率いていた宮廷近衛も勤める朱(あけ)の隊のものだったからだ。 「殿下は、いずこにおわす?」 よく通る使者の声が、荒涼とした大地に響く。 それに応じて出ていこうとするミレダを、ユノーは慌てて制した。 「お一人では危険です! 小官も……」 「相手は単騎だ。私がお前と行けば、礼に反する」 「ですが……」 埒が明かないと判断したシグマが、前に出る。 そして、使者と対峙した。
ランスグレン。 古(いにしえ)のルウツ皇国の始祖である大帝ロジュア・ルウツの時代には、出城が築かれそれなりに栄えていたようだが、今となってはその面影は無い。 目前に広がっているのは、わずかに草の生えている荒涼とした大地である。 ユノーの初陣の地ルドラには適当に部隊を伏せておける木々が生い茂る場所もあったが、ここは彼方に地平線が見えるほどの平地だ。 軍勢がぶつかるにあたり、小細工が通用するような場所ではなかった。 単純に数の大小が勝敗を決するだろう。 けれど、『無紋の勇者』を欠いた蒼の隊はその数を減らしている。 前回出陣時のおおよそ三分の二弱程度が踏みとどまっているという有様だ。一方で、敵軍は万全の体制でこちらを叩き潰しに来るであろうことは間違いない。 そんな絶望的な状況で陣を張り、丸一日が経とうとしている。 幸か不幸か、死神の率いる敵軍の姿は未だ見ることはできずにいた。 「坊ちゃん、大変だ!」 背後から声をかけられて、ユノーは身体ごと振り返る。 と、シグマがこちらへと駆け寄って来るところだった。 「どうしたんですか? そんなにあわてて」 脱走者が出たぐらいでは、もう驚きませんよ。 そう言うユノーに、シグマは息を切らせながら首を勢い良く左右に振る。 「いや、そうじゃない。皇都の方から一個中隊くらいの軍勢が近づいてるって報告があったんだ。でもまあ、あの斥候隊長じゃないから、何かの間違いかもしれないけど」 それにしても、あの真面目だけがとりえの斥候隊長までいなくなるとは思わなかった。 恨みがましく嘯(うそぶ)くシグマに、ユノーは曖昧に笑って返す。 そんなユノーの脳裏に、良からぬ考えが浮かんだ。 宰相は、自分達が敵軍に叩きつぶされる前に、自らの手勢でとどめを刺そうとしているのではないだろうか。 あの宰相のことだ、万が一にも援軍などよこすはずもない。 援軍を装った子飼いの部隊で、内部から叩き潰そうとしているのではないか、と。 「とりあえず、早急に戦闘
かつて巡礼街道最後の宿場として栄えたルウツ領オトラベスも、今や度重なる戦乱で訪れる巡礼者もめっきり減り、どこかうら寂しい空気に包まれている。 神官達ももはや一枚岩ではなく、宰相にくみする者もいる。 そうペドロから聞き及んでいたジョセは、あえて宿舎としている司祭館ではなく、すっかり人気(ひとけ)の無くなった中央広場である人物を待っていた。 皇都を出て、巡礼街道を進みやって来たオトラベス。 この街でペドロから受けた報告は、予想通り最悪なものだった。 しかし、近々好機が訪れる。 そう言い残しペドロが敵国エドナ領アレンタに向けて出立してから丸二日。 必ず戻ってくる、と言った刻限である。 けれど、すでに夜半を回りつつあるのに、待ち人が訪れる気配はない。 やはり宰相、そして皇帝陛下と対立するには多勢に無勢だったか。 大きく吐息を付き、司祭館へ戻ろうとした時、闇の中で何かが動いた。 一瞬のためらいの後、ジョセは腰の剣へ手をかけ、今一度闇の向こう側へと意識を集中する。 けれど、一向に殺意の類を感じることはできない。 果たして、暗闇に慣れた目はこちらへと近づいてくる二つの人陰をとらえていた。 うち、一人が先に立ちこちらへと歩み寄る。 そして、ジョセの目前で立ち止まると、片膝を付き深々と頭を垂れた。 「この度の不祥事は、全ては自分の不徳の致すところ。弁解の言葉もありません」 何卒、相応しい罰を。 そう言う声は、間違いなくジョセの待ち人のものだった。 「お待ちください。力づくで止められなかった私も同罪です。どうか……」 その人の後ろに控えるように従っていたペドロが、言葉を継ぐ。 しばしジョセは両者を代わるがわる見やっていたが、やがて長らく待ち続けたシエルに向き直る。 そして、わずかに身じろぎするその人の頭を、軽くこつん、と叩いた。 「……師匠?」 予想外のことだったのだろうか。 呆然としていると思しきシエルの肩を、ジョセは優しく抱いた。
もう三刻ほど馬を走らせただろうか。 周囲はすでに漆黒の闇に包まれており、アルバートの持つカンテラの灯だけが淡く辺りを照らしている。 運が良ければそろそろ追いつける頃合いだ。 しかし、先方の歩みが早くルウツ領オトラベスに入ってしまったらお手上げだ。 そうなったら、夕闇をついてオトラベスに潜り込むか。 どちらにしても自分らしくはないな、とアルバートが馬上でため息をついた時、前方に何かが見える。 どうにか追いつけたのだろうか。 ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、アルバートは違和感を覚えた。 前方に浮かび上がったそれは、先程から止まったきりで全く動いてはいない。 貴族と呼ばれる人でも野営などするのだろうかと疑問に思いながら馬を進めると、果たしてそれらは目前に現れた。 同時に馬が突如いなないて、その脚を止める。 注意深く見回すと、草むらの上に倒れ伏す人々の姿がカンテラの光の中に浮かび上がった。 あわててアルバートは馬を降り、そのうちの一人に歩み寄る。 灯で照らすと、その首筋には吹き矢とおぼしき針が刺さっており、すでに事切れていた。 視線を動かすと、少し先に護送車と馬車が止まっている。 立ち上がりカンテラを掲げると、身分が高いとおぼしき人と、武人らしき人が数人やはり草むらに倒れていた。 アルバートが追ってきた人が乗せられていたであろう護送車は空っぽで、生きた人の気配は周囲からは全く感じることはできない。 けれど、必要以上に荒らされた形跡も無く、野盗の類に襲われたにしては不自然だ。 一体何があったのだろうか。 訳もわからず注意深く護送車に近寄ろうとした時、アルバートは首筋に冷たい感触を覚えた。 同時に、背後から低い声がする。 「……何者だ? エドナの刺客か?」 首筋に当てられているのが鋭利な刃であると理解して、アルバートの背筋を冷たいものが流れ落ちる。 とにかく誤解を解かなければ。 弁明しようとした瞬間、足元に妙なものが触れた。 恐る恐る視線を落とすと、黒い何か